貴 婦 人 花 ・ 除 虫 菊

除虫菊の思い出といえば、50年以上も前のことになる。戦前より瀬戸内の島々で栽培され、農家の収入の多くを除虫菊に頼っていた。

日中戦争・日米戦争、そして終戦直後には食糧生産に重きが置かれ、さつま芋や麦の作付け多かったように思う。

戦後の食料不足が徐々に快方に向かい、瀬戸内の島々でも、薪炊きの文化がプロパンガスの炊飯に代わっていった。テレビ、冷蔵庫、洗濯機の三種の神器も普及してくると、換金作物である除虫菊が重要になってくる。道路という道路にはムシロを敷いて除虫菊が干されていた。この時期には子供は学校も農繁期休みで、島中が生産に励んだものだ。

しかしそれもつかの間、人体には有害でも、化学薬品が安さゆえに取って代わってしまった。

このような思い出は、当時の子供たちには決して楽しい思いでとしては残ってはいないように思う。貧しくて、労働の辛い事の方が鮮明に甦って来る。

しかし、そうした苦難の戦後を生きてきた世代から、今日の世相に感じることは、あまりにも変化が激しく、目を覆いたくなることの方が多くなってきた。

資源、エネルギーの乏しいこの日本において、溢れる様な物余り現象と廃棄物による汚染列島化。

戦後、全国の山々に杉やヒノキを植林しておいて、その山は放置し、外国の森林を裸にして持ち帰る木材、石油も出ないのに、あらゆるものを石油製品化の生活スタイルに変えていってしまっている。

そして、ついに石油も枯渇してくると、地震列島に原発を建て並べ始めた。

人々は、かつての地震や津波の教訓を忘れ、2010年3月11日多くの生命と財産を失ってしまった。

物質文明が謳歌し、経済至上主義が人々を振り回す今の時勢に、17年前、村上富夫さんが奮起、かつての島中を染めた白いじゅうたんの復活を試みた。

段々畑に生える除虫菊の美しさは、やがて島の観光名所となっていった。

重井地区の老人会も呼応して栽培をはじめた。

そうした折(2000年)、私は島の風景の良さをアピールできる場所を探して、因島大橋をバックに除虫菊を咲かそうと考え、ボランティアを募って栽培を始めることにした。

あれから10年が過ぎ、高齢化は深刻さを深めている。村上富夫さんもリタイアし、ボランティアの人数も減少して言った。

そんな中での今回の「除虫菊を愛する会」の発起である。自分自身、どこまで貢献できるか先は見えないが、体が動けるうちは一翼を担うつもりでいる。

気候変動の激しい此の頃、花を愛でる時期が不安定なのが残念なことでもある。

我が家の庭に咲く除虫菊の花を、時間を置いて眺めていると、その時々で様々な雰囲気を感じることが出来る。白い花は他にも幾種類もある。しかし除虫菊に並ぶ、気品は他の花には見ることは出来ない。

太陽の光を反射するまぶしい白の美しさも絶品だが、夕暮れの太陽の光が無くなった瞬間の、浮かび上がるような白さは、幽玄の世界へ引き込まれるような思いがするものだ。

瀬戸内の島に生まれ育ったものにとって、いつまでも後世に残したい花、それは、貴婦人にも例えられる、「海の見える島に咲く花・除虫菊」意外には無いと思っている。


20115月 除虫菊さかそう会 大出金三

ウェブ アニメータ

入会特典

フッターイメージ
//-->

第1回 除虫菊さかそう会 大出金三さん

NEW
HOME 除虫菊を愛する会とは 除虫菊とは 除虫菊の
思い出
会員募集 SHOP お問合せ リンク